[Ukyo in Action] ジャパン・キャット・ネットワーク(NPO)


取材・執筆:楳田愛依、岡島知優

スーザン・ロバーツさん(代表)

ルイス・ライムンドさん(マネージャー)

ジャパン・キャット・ネットワーク(以下、「JCN」)は、アメリカ出身のスーザン・ロバーツさんが野良猫を助ける目的で、2000年に滋賀県に共同設立したNPOです。2011年の東日本大震災の際には福島県でも救援活動をを行い、現在では東京都と京都府を拠点に、全国の猫に関する問題を解決するため、様々なプログラムに取り組んでいます。右京区の町屋を活動拠点とするJCN京都プログラムのオフィスには、ボランティアメンバーのための宿泊施設、猫のレスキューハウスもあります。今回は、設立メンバーのスーザンさんとマネージャーのルイスさんに、JCNの活動についてお話を伺いました。

—JCNの活動を始めてからどれぐらいになりますか?

スーザン:20年になります。

ルイス:2020年5月にボランティアを始めて、7月からマネージャーとして活動しています。

—JCNの毎日の活動にはどんなものがありますか?

スーザン:里親コーディネーターとして、里親希望者を面接し、猫たちの里親としてふさわしいかを判断するのが主な仕事です。また、保護猫の世話に加えて、野良猫や猫に関する質問メールにも答えています。

ルイス:ボランティアプログラムのコーディネーターとして、ボランティアスタッフの育成やスケジュール管理を担当しています。加えて、猫の健康管理やレスキューハウスの管理もしています。

—JCNでボランティアとして参加する際、知っておく、または理解しておくべきことで最も大切なことは何ですか?

スーザン&ルイス:JCNは、保護猫の世話をするボランティアメンバーの募集も行っています。仕事の内容は教えるので事前に知っておかなければいけないことは特にありません。まず大切なのは、動物を助けたいという気持ちを持っていること、その上で世話の仕方を学ぶことです。

—JCNの活動の中で最も難しかった、または大変だったことはどんなことですか?

スーザン:2011年の東日本大震災では、避難所で動物を受け入れることができないため、被災者とペットが一緒に生活をすることができない状況となりました。飼い主と引き離されたペットを引き取るのはとても悲しいことでした。他にも困難な状況に立ち会ってきました。例えば、車の中に閉じ込められた猫を助ける依頼を受け、必死の思いで警察に協力を頼んだこともありました。

—JCNの活動の中で最もやりがいを感じることはどんなことですか?

スーザン:活動のすべてにやりがいがあります。嬉しかったことの一つに、『ニュー・ホライズン』という中学生の英語の教科書に、JCNの活動がビデオで取り上げられたことがあります。これをきっかけに、野良猫への意識がさらに広まることを期待しています。

ルイス:里親となった人たちが送ってくれるメッセージや、保護猫の写真やビデオを見ると、かつての保護猫たちが可愛がられ、愛されている様子がわかり、やりがいを感じます。

—JCNの理念は何ですか?

スーザン:「ペットを助ける人を助ける」ことです。現在の、様々な地域の状況を変えるには、まず、人々の考え方や行動が変わるようにサポートを提供することが大切です。私は、猫の飼い主から毎日のように猫に関する相談を受けますが、これに一つ一つ答えることが、野良猫を助けることにつながると思うのです。

—JCNのような団体が存在する理由は何だと思いますか?また、JCNのような団体が必要でなくなるためには何ができるでしょうか?

スーザン:JCNのような動物保護団体が存在するということは、その地域に解決すべき問題があるからです。もちろん、一番の解決法は、野良猫の数を減らすことです。そのためも、人々がしっかりと、猫などの動物の世話をすることができるようになるため、その方法を伝えることが大切です。

—右京区において、また右京区に住む人々に対して、JCNはどのような役割を担っていると思いますか?

スーザン:JCNが右京区で担っている役割の一つは、野良猫の数を減らすことです。これは、避妊矯正手術を受ける猫の数を増やすことで可能になります。野良猫を見つけたら、猫を傷つけないように考えて作ったお手製のわなをしかけて捕まえ、手術を受けるために病院へ連れて行きます。そして、手術後は、元気であれば元の場所に返します。猫がこの手術を受けることは非常に大切です。なぜなら、野良猫が増えすぎると、十分な食事や水分を得ることができなくなり、特に子猫だと死んでしまうこともあるからです。これ以上かわいそうな野良猫を増やさないためには、猫に避妊矯正手術をすることが最も効果的なのです。

—将来、お二人とJCNが地域コミュニティにおいて今よりも大きな役割を担うとしたら、どのようなものだと思いますか?

スーザン:保護猫と里親の橋渡しをすることがJCNの主な役割なので、右京区の人たちと保護猫の出会いの場として、猫カフェを作りたいと思っています。もしこれが実現すれば、保護猫や野良猫に対する人々の認識が高まり、私たちの理念である「ペットを助ける人を助ける」の実現につながっていくと思います。

[Ukyo in Action] すこやか嵯峨野ファーム


取材・執筆:佐々木光、西村有理亜

今井義弘さん(農園主)

すこやか嵯峨野ファームは、右京区嵯峨広沢に位置する農業体験農園です。区画貸しで自由栽培をする一般の市民農園とは異なり、農園主の指導のもと作付けから収穫まで一貫した農作業を体験できる消費者参加型の農園です。苗や肥料、道具などは全てファームに用意されており、農業エキスパートの今井義弘さんによる丁寧な指導がなされるため、農業初心者でも安心して参加できます。こちらの農園では、有機農業を目指して、できるだけ殺虫剤などの農薬を使わずに野菜を育てることにこだわられているため、安全でおいしい野菜をたくさん収穫することが可能です。また、子供から大人まで様々な年代の参加者が利用し、一緒に野菜を育てながら交流できるため、地域交流のプラットフォームとしてもご活躍されています。

すこやか嵯峨野ファームでどのくらい働かれていますか?

今井:平成27年からなので6年前からここで働いています。 

すこやか嵯峨野ファームでの主な仕事や役割はなんですか?

今井:すこやかファームでの活動は、従来の農家の仕事、自らが農作業をして野菜をスーパーに卸すというスタイルに農作業の指導、地域福祉、農業を知ってもらい、未来につなげるなどの、より広い農家のあり方を追求した活動、役割を果たすことを目指しています。また、米の栽培も行っており、主に南丹市や亀岡で育てています。すこやか嵯峨野ファーム以外にも亀岡や吉祥院に畑があり、大学の先生などとも協力して新しい野菜の開発にも努めています。

すこやか嵯峨野ファームでの日常の仕事について教えてください。

今井:経営・経理は息子が行なっており、管理や作付けは主に自分で行っています。また何の野菜を作るかやどれだけの量を作るのかも決めています。季節に農園計画を行い、一人一人の畑の手入れが順調に行われているかなど、アドバイスしながら収穫の喜びを共有できるようにしています。

すこやか嵯峨野ファームは、右京区や右京区民の暮らしの中で、何か特別な役割を担っていると考えていますか?それは何ですか?

今井:野菜ができる過程を知るという原点に戻ってもらうことが、自分が担う役割だと思っています。この辺りは都心に近いので、人々にとって農業は身近なものではなく、農業でどのようなことが行われているかわからない人が沢山いて、土つきの野菜も身近なものではありません。私の役割は、そのような方に本来の野菜の生育を間近に見てもらい、自身で体験してもらうことで農業に対する知識がつき、その知識を他の人に教えることで、男女を問わず、年齢を問わず、コミュニケーションができ、つながりが生まれます。そういった参加して楽しいコミュニティを作ることも、すこやか嵯峨野ファームの役割だと思っています。

今後、すこやか嵯峨野ファーム、またはご自身が、地域社会でどのような役割を担っていきたいとお考えですか?

今井:今行っている活動こそが地域社会を担っていると考えています。今まで様々な形で地域社会に貢献してきました。それは、「農業を通して何ができるか」という基本を崩さず、地域社会に貢献できれば、と考えてきた結果だと思います。

農業体験に参加されるのは主にどの年代の人たちですか?また、他の年代の人たちに参加してもらうための方法として、お考えのことはありますか?

今井:いろんな年代の人たちがいます。親子連れが多いですが、最近ではコロナの影響もあり、大学生が休みを利用して友達と一緒にやりたいとか、食の問題から、子ども食堂さんの参加などもあります。高齢の方は、「一日に一回太陽を浴びたい」、「畑の中を散歩したい」など、様々な年齢の方が自分のニーズに合わせて集まって来られます。また、幼稚園や小学校のカリキュラムの一環として取り入れてもらったりもしています。このように、参加していただいた方の輪が広がり、興味を持っていただけるよう、ホームページやパンフレットなどで広く呼び掛けています。

農業体験を通して、参加者に一番学んでほしいことは何ですか?

今井:やっぱり農業に関して理解をしていただきたいですし、それを踏まえた上で農業を楽しんでいただきたいです。さらには有機野菜の美味しさを見て食べていただくことで、健康ですこやかな日々を送ることにつなげていただきたいです。

すこやか嵯峨野ファームではどういった種類の野菜を育てていらっしゃいますか? 今後、新しい種類や珍しい種類の野菜を育てる予定はありますか?

今井:新しい野菜は常に探しています。また、すこやか嵯峨野ファームに参加している人たちからこの野菜を育てたいとリクエストを受けるので、それに応じて栽培する野菜を選ぶこともあります。気候と土に合うように作ることを心がけており、今までで約50種類以上の野菜を育ててきました。「新京野菜」も今後の新しい試みとして期待が持てます。

コロナ禍ですこやか嵯峨野ファームはどのような影響を受けましたか?反対に、よかったこともあれば教えてください。

今井:コロナ禍でファームで集まることには今までとは違って、細心の注意が必要となりました。マスクやフェイスシールド、手指の消毒などもお願いすると同時に、指導場面でもできるだけ「密」を避け、何回かに分けて指導したり、少人数で行うなど、工夫をしています。しかし一方で、畑という自然の中で心が和んだり、癒されるという良さもあり、リモートでの仕事の合間に趣味として農作業を取り入れたいという方も多く、家族とのふれあいや地域の人たちとの交流の場を設けることができているのではないかと思います。

すこやか嵯峨野ファームと海外とのつながりができるとしたら、海外の人にどのようなことを教えたいですか?

今井:農業体験を行っている圃場は東京を中心に150近く全国に散らばっており、東京オリンピックの開催をきっかけに農業体験を提供するネットワークも広がってきました。海外の方に観光の一環として日本の農業体験をしてもらえますし、日本の野菜の美味しさや完成度の高さは世界に誇れる面でもあります。また、手入れの仕方や収穫までの手順は、日本ならではの気候や土壌に合った農法で海外の方にも是非学んでいただけたら、という思いで指導しています。現在ファームにもフランス人の方が二名とドイツの方が一名おられ、文化の違いを超えて交流が進んでいます。野菜を介して自然に、料理の仕方や食べ方の話で盛り上がっています。そのようなことが、食文化、しいては日本の良さを伝える場となってほしいと願っています。

[Ukyo in Action]  亀屋廣清 


取材・執筆:江良みゆき、山口伊織

藤本佳廣さん(店主)

亀屋廣清は、京都市内中心部から北に向かって車で約1時間の地、豊かな自然に囲まれた右京区京北周山町にある菓子店です。大正11年(1922年)の創業以来、地域の人々から愛され続けるお菓子を製造・販売しています。お菓子には野菜、蜂蜜、卵、地酒などの地元で生産された食材が使われているものもあり、亀屋廣清と地域の深い繋がりを感じることができます。店舗には、季節の和菓子、焼き菓子、ケーキなど、「和魂洋才」 の様々な商品が並べられています。この地域は、戦国時代に明智光秀が活躍した地として知られています。そのため、明智光秀にちなんで、周山城や埋蔵金をモチーフにしたお菓子が販売されています。また、京北の伝統産業である「北山林業」に関連して、北山杉や木材をイメージしたお菓子も看板商品のひとつとなっています。今回は、現在の店主である3代目当主の藤本佳廣さん、そして奥様の藤本博子さんに、亀屋清廣でのお仕事や京北に対する思いを伺いしました。

亀屋廣清でお仕事をされて何年になりますか?

藤本:ここは僕の実家やから、大学出て3年間ほどよそへ行って、25の時帰ってきて。今は65やから、40年やね。

ここでお仕事される前は何をしていらしたのですか?

藤本:和洋菓子兼業店に住み込みで働きに行ってた。大学卒業後ですね。

亀屋廣清での主なお仕事を教えてください。

藤本:(ケーキとお菓子を指さして)これやね。毎日注文とは別にケーキ作ってる。常に店にも並べとかんなんし、売れる時はそれが二回転も三回転もしたり、売れへん時もあるし、日によっていろいろ。そして、空いている時間に、こういう日持ちのするお菓子を作ってるから、朝から晩まで何か作ってる(笑)。

昔は和菓子を中心に作っていたと伺っているのですが、洋菓子を作るきっかけとなったことは何ですか?

藤本:親が和菓子作ってたけど、和菓子に限界を感じてたんかな。僕は洋菓子と和菓子、両方やってる店行ってて、そこでは洋菓子を作ってたし。洋菓子の方がその当時はよう売れてて、まだ洋菓子の方が売れ盛りの時やったから。それで洋菓子をはじめて。どっちかというと、和菓子の仕事は単調な仕事が多いけど、洋菓子はいろんなことを四六時中やってる。生モンでどんどん仕事に追われてるから、そうこうしてるうちに主流になってきた感じやね。

とくに思い入れのあるお菓子は何ですか?

藤本:このチーズケーキなんか、最初に店で任してもらった生ケーキ。ちょっとずつ配合は変わってるけど、未だにやってる。焼き菓子ではブランデーケーキを。店ではじめて任してもらった仕事。「木炭のかけら」とかこんなんも、なぜかよう売れて。一番最初に名前でヒットしたんは、このバームクーヘン「好木心(こうきしん)」。これは最初「北山杉のきれっぱし」いう名前で、よう売れた。ともかくこういう、名前にこだわったのはいろいろ思い出がある。

お店のホームページでいろいろなお菓子の名前を見た時も、とてもユニークな名前がたくさんあると感じました。どのように名前をつけているのですか?

藤本:ぱっと思いついて。降りてくる(笑)。

藤本(博子):あと、地域に愛着があるから、地域の良さをお菓子で発信しています。その「木心(きごころ)」って言うのも、木のお仕事をされてる方のことを思って。地域の基幹産業はずっと木材関係やったからね。今でもそうですけど、だからそういうのを大切に。地元の人が、手土産に使ってくださったり、どこかから来られた方が「ここへ来たから木にまつわるお菓子を買って帰ろう」とか思ってくださったら嬉しいなと思って。蜂蜜とかお酒とか、地域の材料を使ってお菓子を作って、より地元の情報発信をね。お菓子の媒体で。菓子屋なので、させてもらっています。

お菓子に込めたい思いとは?

藤本:京北の魅力も含めて、よそへ持っていく時に地元の人が自慢できるようなお菓子を作りたいとは思ってますね。

お菓子作りの他に、日常生活の中でしていることは何ですか?

藤本:きばって畑で野菜とか食材とか作ってるね。

藤本(博子):もちろん、地元の農家さんからも買わしてもらってますけど、自家菜園でとれたものも使ってます。

どんな時に地域の人々との繋がりを感じますか?亀屋廣清として、地域との繋がりを作るために何か取り組みをされていますか?

藤本:「緑の募金」の募金箱の設置、それから『京北の昔がたり』っていう伝承の本も置いています。その中に明智光秀の埋蔵金の伝承とかも書いてあるので、そういうお菓子も作らしてもらってるので、この本を置いておくことで、地域の皆様のお役に立っているかなと思います。あと、周山城の案内とか、こども110番の家とか、認知症関係のサポートとかのボランティアも。入り口のところに案内が貼ってあるんですけど、地域の方のお力になれたらと思ってやっています。

右京区、または京北でご自身が好きなところは何ですか?

藤本:この辺の緑の山間とか川とかは守っていきたいって思う。今は「右京、右京」言うけど、昔は「京都府北桑田郡京北町1」やったから、そのイメージがまだ抜けきれんね。

京北での暮らしは、ご自身にとってどのようなものですか?

藤本:市内からだと、山道通って、ちょっと雨降ったら通行止めになるし、できるならこんなとこ住みたくないなと思うこともあるけど、朝起きたらホッとすることもあるし。難しいとこや(笑)。

今も京北に住み続けている理由は何ですか?

藤本:朝起きてその辺散歩したら「あぁ、ええなぁ」とは思うし、のんびりしてるし。やっぱり生まれ育ったとこやから心は落ち着くね。

注1. 京都府北桑田郡京北町は平成17年4月1日より、京都市へ編入合併し、京都市右京区の一部となった。

[Ukyo in Action] 京都民際日本語学校 


取材・執筆:前川文音、山中雛

上田直紀さん(副理事長) 

松野泰司さん(国際事業部長)

京都民際日本語学校には様々な国から日本語、そして日本文化を学びに来られます。校名の「民」は「人(民)と人との交流」、「民際」は「異なる文化の人同士の交流」を意味し、日本語と日本文化の教育を通して、人と人との交流を大切にし、グローバルに活躍できる国際人を育て、世界平和につなげていきたいという想いが込められています。今回のインタビューでは副理事長の上田直紀さんと国際事業部長の松野泰司さんに協力いただき10個の質問に答えていただきました。

お二人は京都民際日本語学校(以下、「京都民際」)で勤務されてどのくらいですか?

上田:資源開発の企業で働いていましたが、経営の仕事に携わりたいと思っていたところお話をいただき、2019年の10月から勤務しています。

松野:京都民際が運営している日本語教師養成講座で3ヶ月間の講座を修了したことをきっかけに、2009年から勤務しています。

京都民際の中でのお二人の主な仕事や役割は何ですか?

上田:地域社会や国際社会に必要とされる学校作りを目指して経営をしていて、教職員がやりがいを持って働けるような職場作りにも取り組んでいます。

松野:主に海外で説明会や面接をして留学生を連れてきたり、留学のために必要なビザの申請の手伝いをするなど、営業に関わること全般をしています。

京都民際で、毎日または毎週行われる仕事や活動にはどのようなものがありますか?

上田:教務部門では学生に日本語や日本文化・進路の指導を、事務局では学校の運営や学生の管理・国や行政とのやりとりを行っています。また、去年から始まったオンラインビジネス事業部では、オンラインレッスンやSNSを使った情報発信を行っています。

松野:年4回ある入学時期に合わせて留学生のビザの申請を行うことがほとんどですが、他にも学校説明会やエージェントとの商談なども行います。

京都民際の生徒さんは、主に何を目標として日本語を学びに来られますか?

松野:本校にはコースが2つあり、長期コースでは日本の大学・大学院・専門学校への進学を目的とし、短期コースでは、日本で就職したい人や母国で日本語を使って仕事をしたい人などが勉強しています。

京都民際の中で、最もやりがいを感じることは何ですか?

上田:毎日コツコツと取り組んでいることが積み上がっていき、自分が関わった事で学生や教職員が昨日より一歩でも成長したなと感じられる瞬間にやりがいを感じます。

松野:現地の学生募集の面接の時から学生に関わっているので、その学生達の成長を見るのが一番のやりがいです。最初は全然日本語が話せず外国語で会話していたのが、だんだん日本語に変わってきたり学生たちが日本語で話し合っているのを見ると、仕事をしていてよかったなと思います。

—京都民際日本語学校の設立に、右京区を選ばれたのはなぜですか?

上田:京都は歴史・文化・伝統・芸術が有名で、教育や観光にも力を入れているので、留学生が日本について学ぶには最適だと思い選びました。中でも右京区は、勉強のしやすい静かで落ち着いた環境であり、京都の中心地なのでいろんな方面にアクセスしやすいと思いました。

右京区の日本語学校として、これまでにどのような地域との関わりがありましたか?

松野:以前、右京警察署から観光地で流すためのアナウンスのレコーディングを依頼され、5つの言語のお手伝いをさせていただきました。今でも嵐山の竹林では、当時の学生たちが行ったアナウンスが流れていると思います。

お二人それぞれが、今までの経験で、京都民際について一番印象に残っていることは何ですか?

上田:コロナウイルスが感染拡大し、学生達が思い通りの生活を送れていないと感じていた時、地域の方や起業家の方達が学生の夢を応援するために食料などを寄付してくださいました。そしてそれを学生達に配布した時の嬉しそうな笑顔を見たときに涙を流し、学生達のために頑張っていかなければならないなと思ったことが一番印象に残っています。

松野:インドネシアの大学で3年間日本語を教えた生徒のことです。当時彼女は全然日本語ができない状態でしたが、彼女が大学を卒業した後本校に留学し、その後、日本語能力試験のN1を取得してくれました。そしてさらに彼女は日本の会社に就職することができました。

今後、お二人、そして京都民際が地域社会でより大きな役割を果たすには、どのような方法があると思いますか?

上田:デジタル化を教育に導入し、地域の方達と連携して地域の課題に取り組んでいくことができたらと思います。

松野:特に東南アジアで日本語の勉強をしている人が介護士不足に着目しているので、介護施設と介護士になりたい人とのマッチングをうまくできたらと思います。

最後に、京都民際が最も大切だと考えていることを教えてください。

上田:民際の教育理念である「日本文化の学びを通してお互いの考えや育った国、地域文化を理解し受け入れ、愛することができる国際人を育てる。国と国の交流ではなく、人と人との交流を日本語と日本文化を通して学び、お互いを理解する心を培うことにより、世界平和に繋げていく。」を地域の方達にも理解していただき、一緒に作り上げていけたらと考えています。

[Ukyo in Action] 京都ハンナリーズ 


取材・執筆:Niklaus Weigelt、原田涼太

尾郷智香さん(営業担当)

京都ハンナリーズは、国内男子プロバスケットボールリーグ「B. LEAGUE(Bリーグ)」に所属する京都を拠点とするチームです。今回は京都ハンナリーズの営業担当を務める尾郷智香さんに貴重な時間を頂き、チームの魅力や右京区とのつながりに関してのインタビューをさせて頂きました。

京都ハンナリーズのウェブサイトによると設立は2008年とのことですが、チームを京都に発足させることになったのは誰の決断によるものですか? また、チーム名の由来も教えてください。

尾郷:京都ハンナリーズの運営母体はアークレイという会社で、2008年にその会社が50周年を迎えたのをきっかけに何かプロジェクトを始めようという話が出ました。その時に、bjリーグ(当時のプロバスケットボールリーグ)に参加するチームを作ることに決めました。チーム名は、京ことばの「はんなり」から由来しており、「上品で明るく華やかなさま」という意味があります。

京都ハンナリーズの営業を担当されているとのことですが、具体的にどのような仕事をされているのですか?

尾郷:私はスポンサー営業を主にやっています。バスケットボールチームには主に三つの収入源があり、スポンサー収入、チケットの売り上げ収入、あとはグッズの収入です。スポンサー収入が大半を占めていますので、私はそちらの営業を行っています。具体的には、今はオフシーズンですので、来シーズンへの準備として、スポンサー企業へのヒヤリングや提案を主にしています。またスポンサー営業以外にも、試合がある日は設営やチケットの発券といった現場での仕事も多くこなしています。

京都ハンナリーズのロゴやユニフォームに特別な意味はありますか?

尾郷:新撰組をモチーフにしたデザインになっています。

京都ハンナリーズの魅力は何だと思いますか?

尾郷:バスケ全体でいうと、人との近さやスピード感という魅力があると思います。京都ハンナリーズとしての魅力は、京都らしい演出だったり、若手の選手が頑張っている姿や強い相手に立ち向かっていく姿を見ることが出来るという点だと思います。

—京都ハンナリーズの地元右京区とのつながりについてお伺いします。地域コミュニティーとの関わりとしてどのような活動をされていますか。

尾郷:昨シーズンはコロナの影響でなかなかできませんでしたが、以前は右京区の小中学生の無料招待などをしていました。また、右京区の郵便局11局の職員の方々に、京都ハンナリーズのTシャツを着てもらい、右京区全体で応援していただくこともありました。西京極の商店街さんともコラボをさせていただき、京都ハンナリーズのキャラクターを使ったコロナ感染防止ポスターを作製したり、右京区内の小学校3校の小学生211名にクリアファイルとエコバッグをプレゼントしたりしました。

—京都ハンナリーズは今後地域の中でどのような役割を担っていくとお考えですか?

尾郷:スポーツチームとして勝ってファンを喜ばせることはもちろん大切ですが、大前提として京都の町を元気づけたり、勇気づけるためにこのチームは存在しています。ですので、学校訪問や病院訪問をはじめとした、町の課題を解決するような活動を行っていきたいと考えています。

—コロナ禍で様々なご苦労があると思います。特に、スポーツチームの経営にとって、ファンのサポートは必要不可欠だと思いますが、それを痛感したことはありましたか?

尾郷:昨シーズンは本当に大変でしたね。経営としては、試合が実施できないことが一番つらかったです。実施できたとしても、入場制限により、チケット収入が減ってしまうのできつかったですね。また、名古屋ダイヤモンドドルフィンズ相手に無観客試合をしたとき、ファンの方の拍手や声援がなかったため、何だか練習試合のような感じがしました。改めてファンの方の声援や拍手が大きな力になることを感じましたね。

—京都外国語大学の学生達に、将来へ向けてのアドバイスなどが あればお願いします。

尾郷:コロナで難しい状況ではありますけれども、就職活動をする前に自分が興味を持てることを一生懸命探してみてください。それがある人は深掘りをする。ない人は探すために色んな経験をしてみてください。社会に出るとつらいことや大変なことが多いですが、自分が興味のあることについては一生懸命になれるし、困難を乗り越えようと努力もできるはずです。一度きりの人生を自分らしく生きてください。

[Ukyo in Acton] 仁和寺


取材・執筆:宮本千晴、佐々木瑠花

大石隆淳さん(財務部長)

仁和寺は仁和4年(888年)に創建された寺院で、現在は真言宗御室派の総本山です。 境内には、五重塔や二王門など江戸時代に建立された建造物が並んでいます。平成6年には世界遺産に登録されました。取材日には、まず、仁和寺の御殿を財務部長の大石隆淳さんに案内していただきながら参拝しました。終戦の頃の天皇に関わるお話や、寝殿に使われている木のお話、襖に描かれている絵のお話など多くの貴重なお話を聞くことができました。インタビューの後は、仁和寺VR『雲上の国宝展』を体験しました。国宝・重要文化財の仏像がVR上で手が届きそうなくらい近くに来てとても興奮しました。インタビューでは、このようなデジタル化に関する取り組みや、仁和寺が右京区でどのような役割を果たしているのかをお聞きしています。大石様のほか、課長の金崎義真さんにもお話しを伺うことができました。

—仁和寺に入職されてから何年になりますか?

大石:現在の門跡が同級生だったことがきっかけで、平成26年5月に仁和寺へ来ました。20代の時から寺の住職と役所の仕事を両方していました。60代で定年を迎え、その後66才で仁和寺へ呼ばれて来ました。

—仁和寺では主にどのような役割を担われていますか?

大石:主に財務部長、拝観関係業務、仁和寺の景観維持をしています。現在は新型コロナウイルス感染拡大による財政の立て直しが重要な課題です。

右京区または右京区で生活する区民にとって、仁和寺はどのような場所ですか?

大石気持ちに余裕を持ってもらう場所を提供しています。皆さんに仁和寺でゆっくりしていってほしいです。仁和寺に行けばお坊さんに話を聞いてもらえ、自分の苦労を和らげることができると皆さんに思っていただける環境を作りたいです。

今後さらに仁和寺が地域コミュニティに貢献するにはどのような方法があると思われますか?

大石:右京区の方々にもっと仁和寺を知ってもらう必要があると思います。仁和寺に親しみを持ってもらい、右京区に溶け込んで行きたいです。春と秋のライトアップの際には、団体で右京区の方には無料で入ってもらっていますが、まだ周知が十分ではありません。広場を貸していますが、右京区の中にもっと浸透していく必要があります。

「清掃ぼらんてぃあ」について教えてださい。

大石:「清掃ぼらんてぃあ」では境内とOMURO88(御室成就山88ヶ所)清掃登山を行っています。100人くらい来て欲しいと思っていますが、現在は20-40人程度です。立命館大学の学生が20人くらい清掃来てくれており、それ以外の方は一般の人です。もっと多くの方にぜひ清掃ボランティアに来ていただきたいです。

京都には仁和寺以外にも由緒ある寺院や観光地がありますが、昨今では外国人観光客が増加したことによって、多言語化が問題視されています。海外からの参拝客に向けた取り組みとしてどのようなことをしていますか?

大石:国から助成金をもらって、英語、中国語、フランス語、韓国語など多言語化に力を入れています。さらに、Q Rコードから拡張3Dマップを日本語、英語、中国語、韓国語で閲覧することもできます。仁和寺は京都のお寺の中でデジタル化において最先端です。

仁和寺のウェブサイトで境内マップを拝見し、車椅子やベビーカーの人を対象にしたユニバーサル版があるのが珍しいと思いました。これらの境内マップの制作に至った経緯などについて教えていただけますか。

大石:ユニバーサル版のマップは、京都大学と共同で国からの助成金を得て制作しました。

金崎:敷地が広いので、初めて参拝する人に分かりやすくするために作りました。また、参拝客の年齢層が高いので、若者の参拝客を増やせるように現在対策中です。例えば、若い人に興味を持ってもらうために立体的な画像をパンフレットの地図に使用し、表紙の写真にもあえて青空ではなく曇り空を使っています。若者に認知してもらうために行っているこれらの取り組みが、将来的に若い年代の参拝客増加に繋がると嬉しいです。さらに、お寺の敷地が広すぎるというのを長所と捉え、そのスペースに芸術アートを展示することで有効活用しています。

仁和寺の歴史を受け継いでいく上で、最も大切にしていることは何ですか?

大石:仁和寺は、世の中が平和にみんなが幸せになるように祈願してきました。今生きていることを幸せとみんなが思えるような場所にしたいですし、皆さんにもそれを肌で感じとってほしいです。

[Living Histories] 徳丸國廣さん 


取材・執筆:前川文音、山中雛、中辻凌

徳丸國廣さんは、特定非営利活動法人フロンティア協会の代表理事として活動されていて、右京区内まちづくりの先駆者とも言えるような方です。また、右京区基本計画・まちづくり支援制度にも委員として携わられていました。今回は徳丸さんに協会のこと、そして右京区のことについてインタビューしました。

出身はどちらですか? また、右京区に住まれてどのくらいですか?

徳丸:出身は左京区で、中学2年の時から右京区に住み続けています。

フロンティア協会を設立する前、何をしておられましたか?

徳丸:自営業と、趣味としてモータースポーツをしていました。

フロンティア協会の名前の由来は何ですか?

徳丸:将来を開拓していこうという意味が込められています。そして、今までお世話になった人に恩返しするという意味も込められています。

フロンティア協会の設立に右京区を選んだのはなぜですか?

徳丸:協会を設立する前に、スポーツの競技会場を右京区に作りました。ですが、そこで走り回っているばかりではなく、環境保全活動もしたいと思い仲間に呼びかけて、現在のフロンティア協会の設立に至りました。

フロンティア協会では今までにどのような活動をしてこられましたか?

徳丸:私たちにしかできない地域に根ざした様々な活動を行っています。例えば、右京区役所内にMACHIKO(まちづくり交流拠点)という、まちづくり活動に関心のある地域の人々の活動の場の開設に携わりました。

フロンティア協会が最も大切に考えていることはなんですか?

徳丸:協会設立から20年以上経ちますが、活動の趣旨が少しずつ変わり、今は子供を中心にした社会づくり、そして未来を背負っている子供達に様々なことをどう伝えていくのかを主な目的として活動しています。

その子供達との活動は右京区内のみでされているのですか?

徳丸:大きくやってしまうと回らなくなってしまうので、この地域の子供達をしっかりとサポートできるように、今のところは右京区だけで活動を行っています。

では、その活動には具体的にどのようなものがありますか?

徳丸:50人くらいの子供達が神社で大きな太鼓を体験する活動があります。この活動は日本の文化の勉強にもなり、とても貴重な体験だと考えています。また、子供が来ると、その子供のために一家全員が来るので、(たくさんの人がイベントに参加するという)相乗効果が生まれると考えています。

フロンティア協会での活動の中で、最もやりがいを感じることは何ですか?

徳丸:子供達の歓声や笑い声が聞こえてくるとやりがいを感じます。

海外に何度か行かれたことがあるそうですが、海外で同じような活動を見られたことはありますか?また、その活動を見て同じ部分や違う部分はありましたか?

徳丸:見たことがあります。私が初めて海外に行ったのは20数年前だったのですが、そこで感じたのが貧困の度合いの差です。命を無くすかどうかのギリギリのところで救済される子供がいたり、日本とは全く異なるものでした。

フロンティア協会におけるゴール(目標)はなんですか?

徳丸:継続することの大切さをみんなに伝えていくことです。

ここからは右京区のことについて質問させていただきます。右京区の好きなところはどんなところですか? 

徳丸:歩いて行ける距離の中に文化と芸術が凝縮しているところです。

—右京区の中で気に入っておられる場所はありますか?

徳丸:冬の嵐山です。人が少なく雪が降っても綺麗だからです。

右京区が他の区と違う、特別だと思うのはどのようなところですか?

徳丸:現在、フロンティア協会の拠点を太秦に持っているのですが、住民との密着度の高さをとても感じます。

右京区が改善するべきところはどんなところですか?

徳丸:東西の道路はたくさんあるのに対し、南北の道路が少ないことですね。

右京区を一言で表すなら何ですか?

徳丸:歴史文化だと思います。世界遺産がここまで凝縮しているのは珍しいと思います。

最後に、学生に向けてメッセージをお願いします。

徳丸:学生生活を学校の内部だけで終わるのではなく、外部の人たちとたくさん話して、いいコネクションをたくさん持ってください。

[Living Histories] 佐竹美和さん


取材・執筆:佐々木光、西村有理亜

佐竹美和さんは嵐山を拠点とする結婚相談所KUON KYOTOの代表取締役です。ご縁結びや結婚後の相談を行う結婚カウンセラーとしてご活躍されています。大阪、京都(烏丸)などを拠点に活動されていましたが、2年前にご自身で会社を立ち上げて嵐山に拠点を移されました。過去12年間で3500人のカウンセリングと750組の家族を誕生させてこられました。今年2月には、右京区が取り組む「右京かがやきミライ会議のイベント『右京流人生会議』2 にゲストスピーカーとして参加されています。

右京区ご出身ですか?どのくらいこちらに住んでいらっしゃいますか?

佐竹:生まれは大阪の南部です。結婚して京都に来ました。来年で右京区に住んで30年目を迎えます。

嵐山で結婚カウンセラーをされてどのくらいになりますか?また、具体的なお仕事内容も教えてください。

佐竹:結婚カウンセラーとして仕事を始めて14年になります。駆け出しは異業種から集まった、大阪を拠点としたベンチャー企業の初期メンバーとしてスタートしました。会社の規模が大きくなり京都にも支店を広げて活動をしていました。2年前に結婚相談の新たな形を作るために自身の会社として嵐山で結婚相談ビジネスを始めました。今の会社は、従来の結婚相談所が行っている結婚をゴールとした相談だけでなく、恋愛や結婚そしてその後の結婚生活が無知故に不幸にならないように「結婚」を学んでいただくことを大切にしています。相談者が人生100年時代を自分らしく楽しく豊かに生きるためのお手伝いをしています。具体的には、自分自身を知るためのワークショップ、女性・男性の体や心の違いについて学ぶワークショップ、家族写真を撮るイベントの開催さらには賢い離婚の相談まで、結婚後の生活のアドバイス、メンテナンスをさまざまな形で提供しています。

このお仕事をされていて一番大変だったことは何ですか?

佐竹:結婚相談をしていて辛かったことはたくさんあります。例えば、最近はAYA世代(若年成人)の癌が増えてしまうというケースに直面した時は如何ともし難い心苦しさがあります。また、発達障害の方やLGBTQ+の方々のご相談も増えましたが、相談を受ける我々の知識もまだまだ追いつかず、世間の結婚における多様性への理解もまだまだ遅れていて繋ぎたくても実現しなかった時には無力感に苛まれます。ただ、繋げなかったとしてもできる限り相談者に寄り添い一緒に未来を考えていく関係性を築くことを大切にしています。

佐竹さんがお仕事をされる上で最も達成感を感じる時はいつですか?

佐竹:相談者は自信を無くして相談に来られます。カウンセリングの中でその方の気付いていない魅力を発見し、ありのままの自分の存在の素晴らしさに気付かれた時の輝く相談者さんの目を見た時に互いに手を取り合って喜び合います。この時が嬉しい時ですね。また、相談者が結婚して子供が生まれた後にお目にかかった時「佐竹さんに出会えたからこそ今の幸せがあります」とおっしゃっていただけた時にも達成感や喜びを感じます。この時にいただく「ありがとう」は何物にも代えがたいです。

『右京流人生会議』について少し教えてください。ここではどんなお話をされたのですか?

佐竹:『右京流人生会議』では「自分らしい人生の最期を考えることから今の生き方が見える」をテーマにお話をしました。これは私自身が近年父、姑を亡くし、末期がんの娘を看病する中で「死」をとても身近に考えるようになったことがお話をするきっかけとなりました。人生という旅は、誰もが行き着く先は「死」であるにかかわらず自分の最期について語ることを忌み嫌う風習が根強くあるように感じます。あるデータによると、約7割の人は自分の最期が近付いた時、治療方法などの意思決定が自ら出来ない状態にあるという結果があります。従来の「人生会議」はもしもの時のために、自分が望む医療やケアについて前もって家族や医療者と繰り返し話し合い共有する取り組みをいいます。『右京流人生会議』では、「人生の最期はこうありたいな!」と語ることで、そのために今自分がやるべきことは何かをみんなで考えました。重い話題を「今」にフォーカスすることで人生の棚卸しのような感覚に捉えてどの世代の人にも取り組みやすくしました。大学生や40代の働き盛りの方に反応が大きくて、逆に70代80代の方に響きにくかったことが少々驚きでした。忙しく過ぎ去る毎日の中で立ち止まり「死」に目を背けずに向き合うという機会から本来の「人生会議」や人生会議に取り組むきっかけになる「もしばなカード」というカードゲームに興味を示していただけたら嬉しい限りだと思います。終活ノートは一度書いてしまうと遺書のようにアップデートできないですが、人生会議のいいところはどんどんアップデートしていけるところです。このゲームのカードを使えば、そういった重い話題でも気軽に大切な人の死生観について知ることができます。人生会議やもしばなカードの普及の一助になれたら嬉しいです。

今回のコロナ禍で、佐竹さんのお仕事にどんな影響がありましたか?

佐竹:お見合いがなかなかできなかったり、婚活パーティーを気軽に開けなかったりしたことが仕事に影響しました。Zoomでお見合いを行うことはありますが、やはりデートをして距離を縮めていっていただきたいので、会ってもらいたいのに会えないという状況は非常に心苦しいです。

京都の他の区と違って、右京区が特別だと思うことは何ですか?

佐竹:太秦映画村があったり、職人さんなどが多く活躍されたりしていることから、芸術的なところが他の区とは違う特別なところだと思います。嵐山にはよくテレビのロケ班が来たりして、ドラマや時代劇などの撮影の場としても多様に使われています。あとは、何と言っても嵐山というブランドが右京区の中でも特別で、他の区と違うところだと思います。

右京区の好きなところはどこですか?

佐竹:自然が豊かなところですね。今はコロナの影響で観光客の人たちが減ったことで本来の嵐山の美しさが戻ったのではないかと感じます。

右京区の歴史的または有名な場所で、他の人が一番面白い、特別だと思うのはどこだと思いますか?

佐竹:天龍寺が歴史的で有名な場所だと思います。天龍寺は庭がきれいですし、私の知り合いが京都に来た時は毎回天龍寺を案内しています。

右京区内で、佐竹さんが個人的に好きな場所はどこですか?

佐竹:広沢池という大覚寺の近くの池です。対岸は建物や電柱がなく日本の原風景のようです。池の表面が鏡面のようになる時がとても美しいです。四季折々美しい場所で自分の故郷の風景によく似ているのでお気に入りの場所です。

右京区について、何か変えたいことや改善したいことはありますか?

佐竹:飛び抜けた印象がないところが改善したい点ですね。右京区に住んでいて思うのですが、右京区の人は比較的保守的で、あまり変化を好まれない方が多いように感じます。右京区民に地元を誇りに思ってもらうためにも、もっと「右京といえばここ!」という場所やおしゃれな場所を増やしてもいいんじゃないかと思います。右京区には高齢者が多いこともあり空き家が多数発生していますし、こうしたスペースを利用しつつ、もっと芸術的な方達を巻き込んで地域活性できたらなと考えています。若者の力を使って右京区をPRできるといいかもしれませんね。

佐竹さんは、京都外国語大学や京都外大西高校について何かご存知ですか?何か知りたいことはありますか?

佐竹:京都外大西高校はスポーツの強豪校というイメージがあります。また京都外国語大学には森田記念講堂があって、学校の前の道を通る度にいつも綺麗だなと感じています。また、小さい大学ながらも活気のある印象があります。知りたいことは、一般向けの講義などは行っていらっしゃるのかどうかが知りたいですね。

右京区を一言で表現するとしたら、何ですか?

佐竹:右京区を一言で表現すると、「伸びしろが大いにある地区」だと思います。

 注1.「右京かがやきミライ会議」:「10年後も右京で暮らそう。だから今、10年後の右京を話そう。」をテーマに、令和元年と2年に行われた右京区の取り組み。

  2.「人生会議」:人生の最期に望む医療やケアなど、もしもの時のために家族や周りの人に知っておいて欲しい事を前もって考え、話し合い、共有する取り組み。

[Living Histories] スティーヴン・ギルさん


取材・執筆:Niklaus Weigelt、原田涼太

スティーヴン・ギルさんは1953年イギリスの北ヨークシャーに生まれ、1979年にロンドン大学で日本語と日本文学を学びました。京都北西部に26年住み、現在は京都大学と龍谷大学で、英語や英文学(英語俳句)を教えるほか、俳句の講演も行っています。関西で唯一の英語俳句サークル「ヘイルストーン俳句サークル」の代表も務め、様々な国籍のメンバーとともに定期的に会を開いています。執筆家としても素晴らしい経歴があり、詩、記事、著書、翻訳など数多くが出版され、英国BBCラジオでは20の作品が放送されました。俳句のほかアートの分野でも功績があり、「生け石」のインスタレーションの展示は今までに20回以上も行われています。また、環境保護にも熱心で、嵐山に近い和歌の名所「小倉山」の美しさを守り育てる自然保護ボランティアNPO「小倉山百人一集の会PTO(People Together for Mt. Ogura)」の運営にも携わっています。

―最初に京都に来たきっかけと、嵯峨に住むことにした理由を教えてください。

ギル:日本人と結婚して、ロンドンに10年ほど住んで仕事もしていました。その後妻の希望で日本に戻り、大阪で教師の仕事に就きました。昔、右京区に1年間住んだことがあり、静かでいい場所だと知っていたこと、そして、大阪の大学への通勤の便が良かったことが理由で、1995年に引っ越してきました。

―俳句に初めて興味を持ったのはいつごろですか?

ギル:オックスフォード大学に通っていた18歳の頃からです。この時代には、進学せずに「ヒッピー」生活を送る若者が多くいましたが、私もその一人で、大学に行かずインドに旅行に行きました。帰国後の1972年、まだ落ち着く気になれず、チベット文化に惹かれていたことから、スコットランドのチベット修道院に行きました。ここの図書室には様々な東洋の本があり、その一つが、旅をして俳句を書いた松尾芭蕉の作品の翻訳書でした。旅と物書きという共通点からこの本が心に響き、芭蕉に出会った瞬間から私の世界観は一変しました。若くて好奇心旺盛で一所に落ち着けない私が安らぎを感じられるのは自然であると気づいたのです。この後大学に戻って日本語と文学を勉強し、芭蕉を日本語で読むことができるようになりました。

―現代の俳句と昔の俳句とはどのような違いがあると思いますか?

ギル:「俳句」は、正岡子規が明治時代に初めて使った言葉で、江戸時代の芭蕉は「発句(ほっく)」と呼んでいました。発句とは「最初の句」という意味です。発句は、連句に参加する歌人たちが作った歌から始まりました。子規が「俳句」という言葉を使い始めてから現代の俳句の形となり、後に北米に渡ると英語俳句が作られるようになりました。アメリカほど普及はしていませんが、イギリスにも伝わったおかげで、私も俳句に出会うことができました。基本的な考え方は、英語俳句も日本語俳句と同じです。簡潔で、自然を題材にし、もともとは季節に関連したものが基本でした。子規の死後まもなく、季節に関連せず、五・七・五の字数に拘らないという動きも生まれました。関西で活動する私の仲間たちは、京都が季節の祭りや伝統に根付く土地であることから、季節性を大切にしています。現代の俳句は、昔とは生活様式や俳句の対象となるものが異なるので、芭蕉のものとは少し違います。基本的なインスピレーションは変わりませんが、時代に合わせて俳句も変わっていくものなのです。

―「生け石」インスタレーションのアート作品を制作されてきたそうですが、これについて教えていただけますか?

ギル:子供の頃、父の仕事場がスコットランドとイギリスの国境近くにあり、家族でよく川やビーチに行きました。そこで石を拾って帰り部屋の窓辺に飾ったものですが、これが大人になっても続きました。ある日、ロンドン大学で行われたシンポジウムの中で、鎌田東二という神道の研究者が石笛を吹くのを見ました。この時話をしたのがきっかけで彼を私のアパートに招待した時、集めた石で作ったペアストーンを見せるとこれに感動し、私が来日したら展覧会を開きたいと言ってくれました。そして、42歳の時、初めての展覧会を東京のギャラリーで開いたんです。これが好評で次のオファーにもつながったのが、インスタレーション・アーティストとしての始まりでした。私は、自然な形の石を使うのが好きです。ふと見つけた石を自作の俳句や写真と一緒に飾ったり、時には音をつけて展示することもあります。作品の持つストーリーに瞑想的な要素を加えるんです。「生け石」は英語では「live stone」と言います。

―環境保護活動にも熱心だとお聞きしています。「小倉山百人一集の会PTO(PeopleTogether for Mt. Ogura)」についてお話しいただけますか?

ギル:2003年の展覧会の前に、小倉山に学生を連れて行って、ソファ、ミシン、テレビなどのゴミを拾い、ワゴン車に積んで会場に運び込みました。想定外の出来事にギャラリーのオーナーは驚いていましたが、このゴミを見つけた状況をそのまま再現するため、落ち葉と一緒にゴミを展示しました。壁には美しい小倉山の写真を飾り、古来から文学と関わりの深いこの山を表現するために私の詩を添えました。この後も、詩人としてできることは何かを考え、小倉山の麓の寺の住職数名に呼びかけたところ、2人が興味を示してくれ、活動が始まりました。約2年後には、私たちの活動を知った京都市が支援してくれるようになり、数大学のボランティアセンターからは定期的に学生を派遣してもらえるようにもなりました。それ以来、共に山の美化活動に励み、環境問題について学んでいます。この後、竹林の柵の整備など、様々な環境保全活動を行っています。

―京都の他の区と比べて、右京区が特別なのは、どんなところだと思いますか?

ギル:1995年に家探しをしていた時、妻と一緒に嵯峨を歩いていて、ここに住みたいと思いました。親切な農夫が地元の不動産屋を紹介してくれて、2週間後に家が決まりました。10年間ロンドンに住んだ後だったので、田んぼ、池、竹林に囲まれた自然な環境がとても気に入りました。京都の他の区に比べて、嵯峨は広々として開放感があります。天気の良い日は、家から10分ほどの田んぼから、奈良の吉野山が見えるんです。私はよく山歩きに出かけますが、東山や北山に比べて人が少ないのも良いですね。

―右京区で気に入っていることは何ですか?

ギル:私の家のあたりは商業施設が少なく静かで、それが気に入っています。特に夜はとても静かです。レストランがもう少し遅くまで開いているといいのにと思うこともありますが。他に気に入っているのは、自然な草花を一年中楽しむことができ、花を摘んでジャムの瓶に飾ったりしています。

―右京区の歴史的または有名な場所で、右京区外の人が魅力を感じそうなところはありますか?

ギル:北嵯峨には7つの古墳があります。4−6世紀に日本を近代化するために灌漑、養蚕などの大陸の技術を持ち込んだ一族の古墳だと思います。かつては古墳に木が生えていたそうで、イギリスにも同様のものがあり、故郷を思い出します。とても特別な古代の風景だと思います。この地域の田園は、平安時代よりもずっと前に作られたものです。

―個人的に、右京区で好きな場所はどこですか?

ギル:清滝川渓谷とその一帯の自然が大好きです。夏には避暑地としてもってこいの場所です。清滝周辺は、市内の気温が36度の時でも、30度を超えることはほとんどありません。

―右京区について、変更や改善したいことはありますか?

ギル:山や川のゴミの不法投棄が問題です。これを改善するため2003年に環境保全活動を開始し2006年にはNPO法人を作りました。以前は数十トンものゴミが手の届かない場所に散らばっていましたが、これを1トン以下に減らすことができました。東海自然歩道のゴミパトロールを行っていますが、外国人観光客だけでなく、小さなトラックでゴミを運んできて小倉山など嵯峨周辺の道路の裏手に捨てていく業者と思われる人たちがいます。このゴミは、リサイクルや分別廃棄すべきものです。現在、これを処理するのはボランティアのグループだけで、この15年でだいぶ良くなりましたが、まだまだ深刻な問題です。京都市から支援を受け機材などを提供してもらっていますが、そもそも不法投棄を防止するために対策がなされるべきです。もう一つ改善されるべきなのは、田んぼの保護対策です。嵯峨の田んぼは地域にとって宝なのに、現在保護されているのは北嵯峨の7基の古墳周辺のものだけです。昔の嵯峨には田んぼや茅葺の家がたくさんあって、ずっと開けた土地でした。京都市は、嵯峨にあるこれらの宝を保護する政策を持つべきです。

―右京区を一言で表すとしたら、何ですか?

ギル:右京区を表すのに一番ふさわしい言葉は「開放感」だと思います。これが嵯峨が大好きな理由で、嵯峨の土地の特徴でもありますが、気持ちの上でも開放感を感じるのが嵯峨の特別なところだと思います。

[Living Histories] 黒川修子さん


取材・執筆:江良みゆき、山口伊織

黒川修子さんは、京都府京都市右京区京北周山町1  の料理旅館すし米の女将です。大正2年創業で約100年の歴史ある宿を、4人の子供を育てながら、切り盛りされてきました。すし米ホームページの「女将歳時記」では、季節に合わせて、すし米や地域の情報を発信されています。地域の活動にも熱心で、「丹波音頭を踊る会」や京北マップ作成など、様々な取り組みで活躍されています。

—女将として働く前はどのようなお仕事をされていましたか?旅館業や観光業などの業界に携わっておられましたか?

黒川:いいえ全くです。私は核家族の家庭に育って以前はOLをしてました。全然今の仕事とは違う職場で、さまざまな部署の秘書役として働いてました。

―OLから女将の仕事にうつられて、ギャップや難しかったこと、厳しかったことはありましたか?

黒川:ほんとに全てゼロからのスタートだったのでいっぱいありました。何もかもわからないことだらけやったから、今から考えたらほんとによくやったなって感じ。まだ女将の仕事を始めたてで裏方の仕事をやっている頃、1人目の子供が生まれて、子育てとの両立が大変でした。家と仕事場が全て同じ屋根の下で、その当時は大家族だったんです。主人の両親、叔父、叔母、その子供、住み込みの中居さん、大おばあさんと、ほんとに大家族でした。自分は核家族の家庭で育ったので、生活のギャップがあって、毎日目の前のことをこなすのに精一杯でした。

—女将の今の一日のスケジュールを教えていただけますか?

黒川:お客様商売なので、お客様に合わせた一日です。宿泊がある時、ない時、宴会がある時、ない時とかさまざまなパターンの日があります。例えば今日は、4時頃に起きました。宿泊のお客様がいらしたので、まず自分の身支度をしてから、お客様がお風呂に入られたり朝食を食べられたりするので、その用意をします。お客様が起きられてからチェックアウトまではお客様次第なので、チェックアウトされたらお部屋の掃除と洗濯をします。そして、お昼には新しいお客様が来られたので、接客をしました。家族のご飯を作ったり洗濯をしたりするのは仕事の合間で、全てお客様中心の一日になります。

—黒川さんにとって、右京区の誇れる魅力はどこですか?

黒川:右京区っていうより京北って思ってて、別だと考えてるんです。15年ほど前まで京都府北桑田郡京北町でしたからね。ここは田舎ならではの自然もあるし、子供を育てるにもいい環境です。車があれば小一時間で街へ出られるし、ゆったりしてるところが魅力で、私はすごい好きなんです。

ホームページで「女将歳時記」を拝見して、季節の風情が伝わって素晴らしいと思っていたのですが、ご自身が好きな季節はなんですか?

黒川:私は寒い冬が嫌いなんです。京北は冬が長くて寒いので、春の方が好きです。京北の春は桜がいっぱい咲くので、皆さんに来て欲しいと思います。どこを見ても桜で、すごく綺麗な空間が広がる街になります。

—その景色をお料理などで表現されるのですか?

黒川:春は山菜など美味しいものもたくさん、彩も豊かで、見ても楽しんでいただけます。代々受け継いできた、すし米名物「鮎づくし会席」をお目当てに各地からお越し頂きます。京北の鮎は美味しいので、すし米としては夏がおすすめです。

—右京区や京北の特に伝えたい魅力はなんですか?

黒川:京北は自然が豊かで素敵な人がたくさんいます。人口が少ないから繋がりが昭和みたいな感じで、おじいちゃんおばあちゃんから孫世代までのご近所付き合いがあるんです。それを煩わしいと思うか、温かいと思うかで変わってくると思うんですが、昭和感の残るいい街っていうところが魅力だと思います。

—綺麗な着物を着られていますが、着物について何かされていることはありますか?

黒川:着物は重いし、場所を取るし、興味がない人にとってはゴミになってしまうから、本当にいらなくて捨てるのなら、引き取って大事に着るようにしています。そのほか、せっかく着物を持っているのに着る機会がなかったり、自分で着られなかったりという地元の人たちのために、9年前に着付け教室を始めました。家に眠っている着物を着る練習が気軽にできるよう、生徒さんたちと一緒に着物を楽しむ機会を作っています。着物というのは一つの作品だから、大切に引き継いでいきたいと思ってるんです。実は最近、ポン酢に着物を着せてお土産として販売することになりました。これからも処分するはずだった着物を活用できるようなことを色々とやってみたいと思ってます。

注1. 右京区京北周山町:京都市から車で1時間ほどの豊かな自然に囲まれた絶景が自慢の町。2005年に京都府北桑田郡京北町が右京区に編入され、現在の京北周山町となった。