[Living Histories] スティーヴン・ギルさん


取材・執筆:Niklaus Weigelt、原田涼太

スティーヴン・ギルさんは1953年イギリスの北ヨークシャーに生まれ、1979年にロンドン大学で日本語と日本文学を学びました。京都北西部に26年住み、現在は京都大学と龍谷大学で、英語や英文学(英語俳句)を教えるほか、俳句の講演も行っています。関西で唯一の英語俳句サークル「ヘイルストーン俳句サークル」の代表も務め、様々な国籍のメンバーとともに定期的に会を開いています。執筆家としても素晴らしい経歴があり、詩、記事、著書、翻訳など数多くが出版され、英国BBCラジオでは20の作品が放送されました。俳句のほかアートの分野でも功績があり、「生け石」のインスタレーションの展示は今までに20回以上も行われています。また、環境保護にも熱心で、嵐山に近い和歌の名所「小倉山」の美しさを守り育てる自然保護ボランティアNPO「小倉山百人一集の会PTO(People Together for Mt. Ogura)」の運営にも携わっています。

―最初に京都に来たきっかけと、嵯峨に住むことにした理由を教えてください。

ギル:日本人と結婚して、ロンドンに10年ほど住んで仕事もしていました。その後妻の希望で日本に戻り、大阪で教師の仕事に就きました。昔、右京区に1年間住んだことがあり、静かでいい場所だと知っていたこと、そして、大阪の大学への通勤の便が良かったことが理由で、1995年に引っ越してきました。

―俳句に初めて興味を持ったのはいつごろですか?

ギル:オックスフォード大学に通っていた18歳の頃からです。この時代には、進学せずに「ヒッピー」生活を送る若者が多くいましたが、私もその一人で、大学に行かずインドに旅行に行きました。帰国後の1972年、まだ落ち着く気になれず、チベット文化に惹かれていたことから、スコットランドのチベット修道院に行きました。ここの図書室には様々な東洋の本があり、その一つが、旅をして俳句を書いた松尾芭蕉の作品の翻訳書でした。旅と物書きという共通点からこの本が心に響き、芭蕉に出会った瞬間から私の世界観は一変しました。若くて好奇心旺盛で一所に落ち着けない私が安らぎを感じられるのは自然であると気づいたのです。この後大学に戻って日本語と文学を勉強し、芭蕉を日本語で読むことができるようになりました。

―現代の俳句と昔の俳句とはどのような違いがあると思いますか?

ギル:「俳句」は、正岡子規が明治時代に初めて使った言葉で、江戸時代の芭蕉は「発句(ほっく)」と呼んでいました。発句とは「最初の句」という意味です。発句は、連句に参加する歌人たちが作った歌から始まりました。子規が「俳句」という言葉を使い始めてから現代の俳句の形となり、後に北米に渡ると英語俳句が作られるようになりました。アメリカほど普及はしていませんが、イギリスにも伝わったおかげで、私も俳句に出会うことができました。基本的な考え方は、英語俳句も日本語俳句と同じです。簡潔で、自然を題材にし、もともとは季節に関連したものが基本でした。子規の死後まもなく、季節に関連せず、五・七・五の字数に拘らないという動きも生まれました。関西で活動する私の仲間たちは、京都が季節の祭りや伝統に根付く土地であることから、季節性を大切にしています。現代の俳句は、昔とは生活様式や俳句の対象となるものが異なるので、芭蕉のものとは少し違います。基本的なインスピレーションは変わりませんが、時代に合わせて俳句も変わっていくものなのです。

―「生け石」インスタレーションのアート作品を制作されてきたそうですが、これについて教えていただけますか?

ギル:子供の頃、父の仕事場がスコットランドとイギリスの国境近くにあり、家族でよく川やビーチに行きました。そこで石を拾って帰り部屋の窓辺に飾ったものですが、これが大人になっても続きました。ある日、ロンドン大学で行われたシンポジウムの中で、鎌田東二という神道の研究者が石笛を吹くのを見ました。この時話をしたのがきっかけで彼を私のアパートに招待した時、集めた石で作ったペアストーンを見せるとこれに感動し、私が来日したら展覧会を開きたいと言ってくれました。そして、42歳の時、初めての展覧会を東京のギャラリーで開いたんです。これが好評で次のオファーにもつながったのが、インスタレーション・アーティストとしての始まりでした。私は、自然な形の石を使うのが好きです。ふと見つけた石を自作の俳句や写真と一緒に飾ったり、時には音をつけて展示することもあります。作品の持つストーリーに瞑想的な要素を加えるんです。「生け石」は英語では「live stone」と言います。

―環境保護活動にも熱心だとお聞きしています。「小倉山百人一集の会PTO(PeopleTogether for Mt. Ogura)」についてお話しいただけますか?

ギル:2003年の展覧会の前に、小倉山に学生を連れて行って、ソファ、ミシン、テレビなどのゴミを拾い、ワゴン車に積んで会場に運び込みました。想定外の出来事にギャラリーのオーナーは驚いていましたが、このゴミを見つけた状況をそのまま再現するため、落ち葉と一緒にゴミを展示しました。壁には美しい小倉山の写真を飾り、古来から文学と関わりの深いこの山を表現するために私の詩を添えました。この後も、詩人としてできることは何かを考え、小倉山の麓の寺の住職数名に呼びかけたところ、2人が興味を示してくれ、活動が始まりました。約2年後には、私たちの活動を知った京都市が支援してくれるようになり、数大学のボランティアセンターからは定期的に学生を派遣してもらえるようにもなりました。それ以来、共に山の美化活動に励み、環境問題について学んでいます。この後、竹林の柵の整備など、様々な環境保全活動を行っています。

―京都の他の区と比べて、右京区が特別なのは、どんなところだと思いますか?

ギル:1995年に家探しをしていた時、妻と一緒に嵯峨を歩いていて、ここに住みたいと思いました。親切な農夫が地元の不動産屋を紹介してくれて、2週間後に家が決まりました。10年間ロンドンに住んだ後だったので、田んぼ、池、竹林に囲まれた自然な環境がとても気に入りました。京都の他の区に比べて、嵯峨は広々として開放感があります。天気の良い日は、家から10分ほどの田んぼから、奈良の吉野山が見えるんです。私はよく山歩きに出かけますが、東山や北山に比べて人が少ないのも良いですね。

―右京区で気に入っていることは何ですか?

ギル:私の家のあたりは商業施設が少なく静かで、それが気に入っています。特に夜はとても静かです。レストランがもう少し遅くまで開いているといいのにと思うこともありますが。他に気に入っているのは、自然な草花を一年中楽しむことができ、花を摘んでジャムの瓶に飾ったりしています。

―右京区の歴史的または有名な場所で、右京区外の人が魅力を感じそうなところはありますか?

ギル:北嵯峨には7つの古墳があります。4−6世紀に日本を近代化するために灌漑、養蚕などの大陸の技術を持ち込んだ一族の古墳だと思います。かつては古墳に木が生えていたそうで、イギリスにも同様のものがあり、故郷を思い出します。とても特別な古代の風景だと思います。この地域の田園は、平安時代よりもずっと前に作られたものです。

―個人的に、右京区で好きな場所はどこですか?

ギル:清滝川渓谷とその一帯の自然が大好きです。夏には避暑地としてもってこいの場所です。清滝周辺は、市内の気温が36度の時でも、30度を超えることはほとんどありません。

―右京区について、変更や改善したいことはありますか?

ギル:山や川のゴミの不法投棄が問題です。これを改善するため2003年に環境保全活動を開始し2006年にはNPO法人を作りました。以前は数十トンものゴミが手の届かない場所に散らばっていましたが、これを1トン以下に減らすことができました。東海自然歩道のゴミパトロールを行っていますが、外国人観光客だけでなく、小さなトラックでゴミを運んできて小倉山など嵯峨周辺の道路の裏手に捨てていく業者と思われる人たちがいます。このゴミは、リサイクルや分別廃棄すべきものです。現在、これを処理するのはボランティアのグループだけで、この15年でだいぶ良くなりましたが、まだまだ深刻な問題です。京都市から支援を受け機材などを提供してもらっていますが、そもそも不法投棄を防止するために対策がなされるべきです。もう一つ改善されるべきなのは、田んぼの保護対策です。嵯峨の田んぼは地域にとって宝なのに、現在保護されているのは北嵯峨の7基の古墳周辺のものだけです。昔の嵯峨には田んぼや茅葺の家がたくさんあって、ずっと開けた土地でした。京都市は、嵯峨にあるこれらの宝を保護する政策を持つべきです。

―右京区を一言で表すとしたら、何ですか?

ギル:右京区を表すのに一番ふさわしい言葉は「開放感」だと思います。これが嵯峨が大好きな理由で、嵯峨の土地の特徴でもありますが、気持ちの上でも開放感を感じるのが嵯峨の特別なところだと思います。